意欲0の生活

文章能力がないのでレポート課題の授業の評価は悪いです。

「皆仲良く」なんて不可能である

つい先日、大学生活の大半を過ごした団体を抜けた。

私はTwitterに自分の思ったことをそのままツイートする癖があった。その中には団体に関わってるが故の内容もあった。

ポジティブな内容なら問題ないのだが、大抵ネガティブな内容だ。

そのせいでメンバーに反感を持たれてしまい、先日同期からそのことについてハッキリと言われ、自分の意思で団体を抜けた。

 

昨年の12月に団体で東京に行く用があり、私もそれに参加していた。

8月頃から行く事は決まっていたのだが、日が近づくにつれてだんだん私の中で「行きたくないなぁ」というネガティブな気持ちが生まれた。

東京行きの2,3日前からメンバーの前で「東京行きたくないよー」と言うようになった。Twitterでも「行きたくない」と思っていることをツイートしていた。

前々から決めていた遊ぶ約束が直前になるとなんだか面倒くさく感じたりしてドタキャンしたくなる、という感情と同じ様なものだ。東京遠征は楽しみ、でも知らない土地に数日間滞在して、1日の大半プライベートな時間がないことや遠征に向けてのパッキングやなんやを考えると、そのストレスがまとめて「行きたくない」という言葉になった。

私の中では皆1度は思う事、悪口ではないし問題ないと思っていたのだが、この一言が全員を怒らせていたという。

この前にもネガティブなツイートのせいで後輩に激怒されたことがあり、それを踏まえての怒りだという。

 

言ってしまえば私は皆から「学習しない人を不快にしてチームワークを乱す邪魔者」というレッテルを貼られ、周囲からの信頼を無くしてしまった大バカ野郎になってしまったわけだ。

 

このことに関して私が言うことは無い。怒らそうと思ってやったことではないにしろ、受け取り側が不快に感じたのであればそれは私に落ち度があるから。

ハッキリ言われた事で自分の人間性に難があるということもハッキリした。

 

団体では「誰でも参加出来る開かれた場所に」「皆仲がいい団体に」という事を目指している。

ここでやっとタイトルの本題に入るが、抜けた身として感じたことで「皆仲良くなんて、一生無理な話だろう」と自分が悪い側でありながらそう思った。

抜けた時こそ「私がいなくなればチームワークは円滑になるし、不満が解消される」と思っていたが、日々を過ごすうちにそう思わなくなったのだ。

なんというか、村八分の文化が現代まで残ってたり、学校でいじめが無くならない理由と同じ感じ。

私がいなくなった今、私に反感を持っていた人達は大喜びしご飯に行く度に今まで溜め込んでいた私への不満をお互い吐きながら「これから頑張りましょうね!」とか「これで団体が良くなる」なんて思っているんだろう。

きっと皆理解していないのだ。そういうことでしか一致団結できない、これが本当の意味での「皆仲良く」にならないことを。

そのうち「あいつは全然ダメだ」とか「あいつのこういう所が理解できない」とか「あいつのこれが腹立つ」とか「あいつとはやっていけない」とか、そういう不満が次から次へと出てくる。そしてまた排除志向が生まれその対象者は団体に居づらくなる。

この世の在り方として、そういったことは必要悪なのかもしれないが、団体の目指しているものを考えればそのままで良いと思っているなら「皆仲良く」なんて馬鹿らしいからやめてしまえと思う。

互いのプライベートに干渉せず、ただただ仕事だけの関係を続ければ良い。それぞれの仕事ぶりにだけ目を向けて、それ以外のこと全てを視野に入れなければ良い。そうすれば「皆仲良く」は実現するかもしれない。

 

仕事の付き合いもあり、プライベートの付き合いもあるから余計な感情が生まれるんだと思う。もうどちらかを取るしかない。仕事上の付き合いは嫌だがプライベートならOKというなら一緒に遊びに行ったりするだけの関係を続ければいいし、逆なら仕事の事だけで関わる関係を続ければいい。

それが嫌なら、お互い問題について冷静に向き合っていける方法を探せ。

 

開かれた環境を作るのはそれほど簡単な事じゃない。どうやったらこの世からいじめが無くなるのかを考えると同じくらい頭を回して欲しい。

陰で不満を垂れ流して排除成功したら満面の笑みで喜んでるようじゃ、この先も同じ事の繰り返しだし、次は自分が標的になるかもしれないことをもっと課題にしてほしい。できれば、己が排除される側の人間になる前に気づいて欲しいが。